私と音楽(ヴァイオリニストHz氏の場合2)
前回はHzさんとヴァイオリン、そして音楽全般との関わり方について伺いました。
今回は活動ジャンルであるクラシックについてフォーカスしていきたいと思います。
出典:( https://www.instagram.com/p/BO9EnuMDidA/ )
λ
「Hzさんにとっての、クラシックの楽しさとはなんでしょうか?」
Hz
「聴く側、弾く側それぞれあると思いますがやっぱりどちらも弾き手によって演奏が全然違うところでしょうか。
これには解釈と一回性の2つの側面があると思います。
まず解釈ですが、楽譜という記録メディアの不完全性…原典が”音源”じゃないので、与えられたお題に対する間の取り方、音程、テンポ…といった解釈の余地が生じ、表現の自由度がもたらされます。
楽譜では等価扱いになるような一瞬の間を置いたり低音パートを一瞬先に出したり…このあたりは古典落語などにも通じるかもしれません。
アンサンブルでもそれぞれが持ち込む解釈の違いを一緒に弾く側も楽しんでいる。
20世紀以降は録音技術が現れて、音源を参照して表現している部分は大いにあるけれど、それを参照しながらも自分の解釈に落とし込むことになります。
もう一つが一回性で、これはたとえば自分の録音と全く同じに演奏するのは難しいといった、演奏の再現不可能性のことです。
機械演奏や録音は再生ごとに完全な再現が可能ですが、人間の演奏はそうではない」
λ
「機械演奏ではない生の演奏の魅力ですね」
Hz
「それをある程度コントロールするのも技術だったりはするんですが。
偶然性についてはこんな話もあります。
ワルター・ギーゼキングというピアニストが1945年1月23日に空襲下のベルリンでベートーヴェンの皇帝を演奏してるんですが、これに高射砲の音が入ってます」
(5:22付近、16:50付近で発砲音が聞こえます)
Hz
「同じ日にフルトヴェングラーの指揮したブラームスの演奏も録音が残っていまして、鬼気迫る演奏になっているような気がします。バイアスかもしれんけど」
(注釈 この時期ベルリンは既に連合国によって日常的に空襲を受けている状態であり、さらに東部戦線ではヴィスワ=オーデル攻勢によってソ連軍はドイツ軍を撃破しながらベルリンからわずか70kmのオーデル川に迫りつつある真っ只中であった。日本でいうと赤軍が利根川の目と鼻の先まで来ている状況で東京で演奏会をやっていたようなものである)
Hz
「ちなみにフルベン(フルトヴェングラー)は戦後の演奏でベルリン空輸の音が入ってる録音もあります」
λ
「ベルリンにはエキストリームなクラシック録音を生み出す何かがあるのか…」
Hz
「クラシック演奏の何年録音版の違いみたいなのはこの解釈と偶然性の両方が楽しめる。
他には例えばグレン・グールドの演奏したバッハのゴルトベルク変奏曲やイタリア組曲なんかデビュー当時からと最後の方まで録音が残ってるんですが、聴き比べると全然違う演奏になっている。
イケイケだった若いときのは俺の技術すごいだろ、みたいな演奏だったんですが、晩年になると表現が技術依存ではなく音楽的深みが増す。そういった成長も楽しめる」
イケイケのイタリア組曲と深みのあるイタリア組曲が比較できるプレイリスト
λ
「成長を追うのを楽しむアイドルみたいですね」
Hz
「そうなんですよ。俺達のアイドルグールド。他にも演奏中に歌を歌っててそれが録音に入っていたりする。私は別にグールドだけすごい好きなわけではないですが、おすすめの録音を貼っておきます。
特に後者に収録されているGriegのソナタは、唯一無二の解釈であり、これを聴くとこの解釈の魔力から離れられなくなる」
λ
「今回はクラシックにまつわるエキサイティングなエピソードを色々伺いました。
個人的にはめっちゃトイレ我慢してる指揮者の演奏とか聴いてみたいと思いました。
さて次回はクラシックが敷居が高いと思われている事についてもお話を聞きたいと思います。ありがとうございました」
(第三回に続く)